『楽園 〜Le Paradis〜』 プロローグ




 私は朝、眠る。
 東の空が白み始める頃、眠る。夫を起こさぬよう静かに布団をまくり上げ、彼の隣に体を滑り込ませる。そのときまだ私の眼は冴えている。ベッドに入る直前までワープロと向かい合っているからだ。体中の神経が張り詰めている。私は横になり、緊張した筋肉とシナプスの糸を静かにほぐしていき、何分かかけて眠りに就く。ゆっくりと数を数え、心と体を柔らかく溶かし、眠りへと落ちていく。

 目が覚めるのは大体十時頃。夫が朝昼兼用の食事を作って待ってくれている。
 夫は月並みな、でもそれ以上は望むことが出来ない朝の挨拶を目覚めた私にする。
 ―――おはよう。
夫はいま仕事をしていない。長いあいだ勤めていた編集の仕事を辞めて半年になる。その間、主婦のように家事をこなし、読書をし、映画を観、好きなことをやってのんびりと暮らしている。

 私が彼と知り合ったのは仕事がきっかけだった。そのころ私は駆け出しのライターとして売り込みに必死になっていた。彼はそんな私に眼をかけてくれた。もちろん最初に彼が注目したのは私自身ではなく私の書いた文章だ。彼はある編集部の副編集長をやっていた。
 それから彼は幾つかの、特別な仕事を私に回してくれるようになった。そしていつの間にか夕食をともにし、酒を飲み、夜を明かす間柄になり、いつの間にか結婚していた。もちろんそれまでのいきさつについて語ればそれは長い長い話になる。でもそれは過去のことだ。今の私にそのころの思い出はほとんど意味をなさない。私は彼と仕事で知り合い、そして結婚した。それだけで十分だ。

 私はいろいろな文章を書く。日常の些細な出来事に関するエッセイ、各方面で活躍する人々のインタビュー、南米や東欧の旅行記。国内の旅行について記すこともある。
 第三世界諸国の旅行記を書く人間は珍しい。特に女となればなおさらだ。しかしそれは彼の、夫の差し金で行われたもので、その物珍しさ故に関心を呼ぶだろうという彼の目論見は大体において成功した。そのおかげで私はフリーランスのライターとして徐々に知名度を上げ、仕事も順調に増えていった。

 朝、の話に戻る。

 おはよう、と言うときの彼は優しい顔をしている。彼は私が夜に、彼が寝ている間にものを書くことを知っている。だからその言葉には、お疲れさま、という意味も含まれる。
 おはよう。彼は笑顔とともその言葉を口にする。
 だがそれが問題なのだ。
 ここ何週間か、私の中で押さえ切れずに膨らんでいく、一つの思いがある。
 彼の笑顔。彼の優しさに満ちた、包容力や、寛容さが滲み出た表情。
 私はそのような夫の笑顔を信じられなくなってきている。
 いや、笑顔だけではない。彼の表情すべて、そして言葉もだ。
 それは朝に尽きることではない。食事が追われば、私は再び夜の仕事の続きをする。打ち合わせのため出版社に出かけることもある。あるいは取材で何日間か家を離れることもある。
 無理しないように、頑張ってな、いってらっしゃい、………
 そのような言葉が夫の口から出てくる度に、私は、私の中で膨らむ夫への不信を感じる。

 どうしてそう思うのだろう?
 理由は明確ではない。が、その感じを説明するとこうなる。
 彼の言葉、彼の笑顔、彼の包容力、彼の寛容さ、彼の私に対する愛情。そういったものが私を通り過ぎていくのだ。彼は私の目を見ながらそれらの言葉を口にする。だがその言葉は私の体を通り抜け、私の後ろにある壁とか廊下とか玄関とか、時計とか花瓶とか写真盾とか窓の外のベランダの向こうとか、そういった場所へ霧のように流れていってしまう。霧というのは正しくないかもしれない。霧は肌に触れると冷たさを感じる。もっと軽く温度もなく、もっともっと存在の薄いもの。
 そして不思議なことは彼の声や表情、彼から発されるものが霧のようになっていくに連れて、彼の輪郭、彼の存在はくっきりと、気分が悪くなるほど明確になっていく。拡大鏡で見た画像のように。肌に刻まれたしわや、なまあたたかな息づかい、細部に至るまでの存在が鮮明になってくる。そしてそれらの必要以上のディテールは私に吐き気に近い感覚を及ぼす。最近の私は夫をそのように感じている。
 でもおそらく、それは私の変化なのだ。いや、おそらくではなく、確かに。夫は何も変わっていない。私に向ける彼の態度は以前と全く変わっていないのだ。彼から出てくるものを受け取る私の側が変化してきているのだ。理由は分からない。だがどうして私がそのように感じ始めたのか、その発端ははっきりとしている。

 向井シュウジのインタビューだ。

(02/07/18:掲載)


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