『博士の愛した数式』
小川洋子の新刊、といっても発売からかなり経ちますが、『博士の愛した数式』を読みました。帰省後まもなく書評で新作が出たことを知り、すぐさま市内の本屋をあたったのですが在庫がなく、五日ほど待って手に入れました。けれどその後なにかと忙しく、ようやく昨晩ページを捲ることができた次第です。小説を一気に読み通すのが苦手な私はいつもどおり何日かかけて、と思い本を開いたのですが読み始めるやいなや、夜が更けるのも忘れあっというまに最後まで読みきってしまいました。
記憶する力を失った数学者と彼の世話をする若い家政婦、彼女の幼い子供の交流を描いた、せつなく、いとしい物語です。
以前「Sigh on the Web」にも記しましたが、彼女は私の敬愛する作家の一人です。そしてこの『博士の愛した数式』は、私にとって『完璧な病室』や『密やかな結晶』とならぶ彼女の最高傑作となりました。
彼女の何が好きか理由を挙げたらきりがありませんし批評は本業ではないので詳しくは触れません。ただこれまでの小川作品が持つ透明感はそのままに、以前には見られなかった具体的な数学や野球という題材を取り扱ったことに作家としてのさらなる成長を感じました。
数学を題材にした小説は何冊か読んだ記憶がありますが、いずれも謎解きの対象か、あるいは単なるエピソードとして挿入されているだけで、そこにあるのはただの無機質な数と式の羅列でした。ですがこの作品では友愛数や完全数、オイラーの公式などが巧みにちりばめられ、さらには数学者と親子をつなぐ大事な架け橋として愛しむべき対象にまでなっているのです。小川作品らしいといえばそこまでですが、その技巧はこれまでの作品よりも秀でています。まぎれもない傑作でしょう。
もうひとつ題材として、作中では明記されていませんが「前行性健忘症」が取り上げられています。題材、というよりも登場人物の数学者がまさにこの症例なのです。記憶に新しいところでは映画『メメント』の主人公もこのケースでした。
実は以前、私も前行性健忘を題材に脚本を書こうと思ったことがありました。
この障害の存在をはじめて知ったのは五年ほど前、NHKのドキュメント番組を見てのことでした。事故による頭部への損傷、あるいはある種のビタミンの著しい欠如により脳の一部に支障をきたし(性病をきっかけに発症するという話も耳にしましたが定かではありません)、それ以降、新しい事柄を記憶する能力が欠如してしまう、というのがおおまかな症状です。
『メメント』を観たときにも、やられた、と感じましたが執筆を断念するほどの衝撃はありませんでした。おそらくそのケースを知る者にとってあの映画の見所は症例よりも物語のリワインドだったからでしょう。
しかしこの『博士の愛した数式』を読み終え、私は前行性健忘を題材にホンを書くことを諦めました。ここまで美しく、作品として申し分のないものを読んでしまったら潔く断念するしかありません。
話が逸れてしまいましたが、とにかく『博士の愛した数式』は傑作です。全ての方に、とは言いませんが、小川女史の作品を読んだことがあり、少しでも彼女の文章に興味がある方には一読することを強くお薦めします。
(03/10/20:初稿、03/12/26:加筆)
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