something spiritual below a tree


 帰省してひと月が経ったころ、庭の片隅に小さな木が植わっているのを見つけました。腰の丈ほどもない小さな木です。それまで何度も庭には出ていましたしリビングからも見える場所なので視界には入っていたのでしょう。けれど帰省後初めて、その木がそこに植えられていることを認識しました。
 その木は梅花卯木(ばいかうつき)というユキノシタ科の一種で、三年前に母が植えたとのことでした。名前のとおり梅に似た花が附くそうです。そしてその梅花卯木が植わっているのは、先に記した四年前に死んだ愛犬の小屋があった場所のすぐ傍でした。

 その日、私はなんの気もなしにリビングの掃出し窓を開け庭を眺めていました。不意に何かの存在を感じ視線を向けると、いままで目にも留まらなかったその木がそこに「居た」のです。そしてその感じた存在は、四年前に死んだ犬のものでした。

 霊や前世後世の存在は否定しませんが、別段深い興味もありません。それは単に私がそういったものを感じた経験がないからでしょう。ですがその一瞬の邂逅から後、私はその木の陰に愛犬の姿を想うようになりました。

 少し前、自分の亡骸をどうしてほしいかということを友人と話題にしました。私は墓石の下に眠りたくはない、月並みだけれども火葬の後、遺灰を海に流して欲しいと言いました。友人は、桜の木の下に埋めて欲しいと言いました。その時は特に気に留めず、どこかで聞いた話くらいに思っていました。ですが先の梅花卯木に出会ってから、そのような葬られ方もいいかもしれないと思うようになりました。

 墓石の下、もっと言えば墓地に埋葬されるのが嫌なのには理由があります。
私の家系はそれなりに古く、墓地の面積は広めのワンルームほどあります。実家に住んでいたころは年に数回、家族で墓参りに出かけました。物心つく前から墓石を水で流し、花を献け、線香を燈し、墓石の前で手を合わせ顔を知らぬ先祖のため祈りました。ですが成長してものごとの仕組みが少しだけ分かりかけてきたころから、私はそれらの行為に違和感を覚えるようになりました。
 それは四角く削り磨き上げられ、戒名が彫りこまれた仰々しい墓石を死者の象徴や代替として祈ることに対する違和感です。
 古い寺でよく見かけますが、家系が絶えた檀家の墓地は遺骨を掘り起こされ他人の墓となり、墓石は寺の隅に集められ雨ざらしになり廃れていきます。そこに死者への弔いはありません。私の家系も現代の多くの家族と同じように遠くない未来に絶え、墓地や墓石は消え失せてしまうでしょう。ならばいっそのこと、いずれ無くなってしまうシンボルなら最初から墓地も墓石もいらない、というのが理由のひとつです。
 それともうひとつ。借りたものは返したいということがあります。言うまでもなく私たちの身体は自然から恵まれた物質により出来ています。そこにもう命が宿らないのであれば、何も残さず全てを自然に帰したいと思うのです。
 もちろん今では私も相応の歳となり、墓参や墓自体の存在意義はそれなりに理解してはいるのですが。

 話を戻しましょう。庭に植えられた梅花卯木について。

 10th note 「西空の稜線、犬の散歩道」で記したように私は愛犬が死んでから後、帰省のたび彼の不在に寂しさを感じていました。ですがその木と出会ってから私の中で彼に対する喪失感は消え、代わりにその木に対する愛着が生まれてきました。
 そして木の下に眠るということ。
 生まれ変わりなどではなく、故人を想うための「標し」として。庭の片隅に、あるいは思い出の土地でもどこでもいいでしょう。そこに立つ一本の木。風に吹かれ枝を揺らし、雨に降られ葉を濡らす命ある墓標。
 桜の木とまでは言いません。私が存在を感じた彼と同じく、小さな木で十分です。その下に眠り、ほんのひとときでも良いから誰かがその木を見て私のことを想う。そう考えるとそれはそれで悪い気はしないものです。

(03/11/15:初稿、03/12/27:加筆)


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