「本の庭、暮れの丘」 〜 a Garden of Books, a Hill at Sunset 〜


 私達が生まれた町には海があり、山がある。
 海沿いを走る電車は砂浜や防波堤を横目に、町をうねり大きな駅へ着く。緑に覆われた山からはきれいな水が湧き出し、幾本もの小川となり海へ注いでいる。
 私達の家は大きな駅から三つ目の、砂浜が見える小さな駅から歩いて七分の緩やかな坂の上にある。
 家からは隣の家に半分隠された砂浜と海が見え、もう少し遠くには岬の小高い丘が見える。

 私達はその家で生まれ育った。両親と兄と私、弟と妹。けれど母は若くしてこの世を去った。そして兄も帰らぬ人となった。
 私と弟も家を出て、いまでは父と妹がその家で暮らしている。

 私も兄妹も、母のことをよく憶えていない。父だけが母の記憶をたくさんたくさん抱えている。けれど父がそれらを話すことはほとんどない。

 ひとつだけ、悲しい出来事を憶えている。
 母が死んでから少しして。私は偶然、夜ひとりで台所に座る父が泣いているのを見た。私たちの前では涙を見せなかった父が、居なくなった母の影がまだ残る場所で、ひとり涙をこぼしていた。
 私は胸を締め付けられるような思いに駆られた。でもきっと、それは父の比ではない。
 父は母を愛していた。そして母も。

 最近になりようやく父は母のことを口にするようになった。
 たどたどしくも、笑みを交えながら。

 言葉にできない悲しみはいつまで残るのだろう。
 きりきりと痛む想いを、いとおしい過去にしてしまえるのはいつからなのだろう。

 家にはまだ母と父の思い出が残っている。
 ふたりが決めた食器棚。
 ふたりが決めたカーテン。
 ふたりが決めた庭の植木。
 ふたりが決めた屋根の色。

 父はそんな家で暮らしている。

 きりきりと痛む想いを、いとおしい過去にして――――。
 

( 2005年9月 小さな作品展第3回 「本の庭、暮れの丘」 序文 )


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